和コーチングオフィス

家庭連合の現役1世信者です。主にコーチングについて書いていきます。

コーチングの時間配分

ここ最近コーチングの時間配分をいつも考慮してセッションをしているのですが、それが結構難しくて試行錯誤しています。

 

と言うのは一度質問すると話が止まらず、それだけでかなりの時間が経過してしまう事が結構あります。まあ傾聴だけで良い人は良いと思うのですが、それだとセッションが進まないので、どこかで話を切らないといけないのが心苦しいですね。

 

対策としては、長い時間のコースを作っていくのが1つと、見極め方を鍛える事ですね。これは経験を積んでやっていくのがベストでしょう。

信仰を表明して仕事をする意味

最近、ココナラで仕事をするのに、信仰を表明してする事にしております。そうするのにも色々悩みましたが改めてそうしていこうと思いました。

という事で今一度メリット、デメリット等思いつく限り挙げていきます。

 

ハイリスク・ローリターン

 

これは家庭連合の報道がなされる度に何も知らない一般の人のイメージはかなり良くないでしょう。今も裁判で連敗でさらに下がります。そうすると信者と分かった時点で敬遠される事がかなり多くなると考えます。

 

これについては、もう最初から信仰を明かしていると、正体隠しだと後々批判されないという事が1つありますね。それでもクライアントとしてコーチングを受けに来られる方はどんな存在かと言うと、宗教に抵抗が無い方、色眼鏡で見ない方、そんなの関係なくコーチングを純粋に受けたい方でしょうね。人数的にはだいぶ少数かもしれませんが、それが逆に良いと考えます。

 

報道やネットだけを鵜呑みして、実際に家庭連合の信者と会って話した事も無い人が一体何を知っているのかと思うし、信仰を明かしているのは、様々な意味で試金石になると思うし、強力なフィルターになるかなと思っています。

 

 

 

 

愛を知るには

人は愛され無ければ、愛が分からないと言う言葉があります。これは教会でも割と使う言葉ですが、今回はこの言葉について考えていきたいと思います。

この言葉は間違ってませんが、これだけだと不十分です。

今回の結論として、愛の本質は、自分から愛してみなければ、ほとんど分からない事だらけだという事が出来ると思います。

 

例を1つ挙げてみます。

 

私たちは結婚して子供が出来て、子育てをする時にその大変さを体験します。その時にあらためて私の両親がこうして育ててくれたのだなと追体験するでしょう。もちろん全てに当てはめる事は出来ませんが、そんな体験をした人は多いと思います。

 

これはいままで知らなかった親からの愛が分かる様になる典型的な一例だと考えます。

 

本来目指すべき事は何かというと、主体的に愛したいという心になっていく事だと思います。

 

人は本能的に愛されたいという心は備わっています。しかしこれは言ってみれば受け身的な心だと捉える事が出来ます。もちろんその心の在り方に良し悪しはありません。

 

それでは、愛が分からないと言う人はどうすれば良いのでしょうか?

 

これは信仰初期の原点に立ち返る事が大切だと考えます。

 

「神様、私は愛が分かりません。だから教えてください」

 

このように自分の心を率直に神様に伝えてみる事ですね。特に今は天心苑祈祷会が各教会で行われている事も多いでしょう。それで今までまともに祈った事無い人はこれは意外と良い機会なので、参加してみるのも良いでしょう。

 

祈祷文の前半だけだと、なげやりになっているだけなので受け身な感じですが、後半の教えてくださいと言う言葉には、自分から神様に主体的にアプローチする、いわば主体的な祈りに繋がる事だと私は思います。

これが第一歩だと思います。

これは同時に潜在意識と言うスーパーコンピューターにオーダーをかけている事になります。そうすると、オーダーをかけた事が私の周りに引き寄せられてくる事もあると思います。

 

その第一歩を踏み出して、神様を慰労する天一国主人を目指していきましょう。

天一国主人としての信仰生活

www.2ndgen-rights.com

ここには、事件後様々な被害が報告されています。今日ふと思った事なのですが、このままでは日本の学校,企業にいる事が私たちにとってかなりの不安材料になってきます。そこでどうすればいいかと考えるのですが、一つの意見として、海外移住と言う事をポストしていた人がいました。

 

その人は実際にはしていないのですが、これは割といい考えでもあります。それは、例えば、学校を選ぶ際にインターナショナルスクールを選んでみると良いかもしれません。海外は割と宗教を語るのは当たり前なイメージがあるので、それと外資系の会社に行くも良いかもしれませんね。

 

とにかく日本の企業だとこうした、人権侵害が今後も起こりやすいので、私としては日本国内と言うより海外で活躍できる様にどんどんシフトしていく事が良いのかなと思いました。まあだからと言って外資系と言っても人権侵害が無いとは言い切れないのですが。

 

あくまでも私の勝手なイメージなので、参考程度に考えて頂けたらと思います。

 

そしてもう極めつけは起業する事ではないでしょうか?自分で仕事をするという事はもはや他責は出来ないので、自分の成長にもつながる事だと考えます。

 

次に解散請求の報道の中で万が一解散になったとして、家庭連合の看板は無くなりますが私たちの家庭や信仰が同時に無くなる事はありませんし、み旨は続きます。

私たちの目的はあくまでも神様の夢の実現、世界平和です。

ある意味教会存続のためだけに生きているのではありません。

私たちは各家庭がみんな天一国主人です。

 

 

 

 

SNSの使い方

Twitterで知られるX等のSNSに対しての使い方を考えてみたいと思います。

 

今回の結論は見た人が喜んでもらえるような、心が洗われるような、プラスになるような、創造原理で使うという事です。

僕らはそれに抵抗できない

と言う本を見つけまして、ちょっと読んでみようと思ってます。サンプルを読んでみても興味深い内容が書かれていて、要約すると画面の向こう側にいる人たちがどのような意図でプログラムしたのか?それは軽く人の自制心を越え、ついついスマホを取り出して見たくなってしまうように意図的にデザインされているのです。

ついついゲームで課金したくなるのは、遊んでいる本人が、ギリギリ手が届くかどうかの塩梅でデザインされていたりします。

 

挙げればきりがありませんが、最近はXをよく開いて家庭連合に関するポストを読んでます。そうすると関連したポストが滝のように流れてきて、それを読んでるだけで時間が溶けていき正直結構疲れてしまします。

 

SNSの使い方を考えるきっかけは、エックス上で○○VS○○の構図になった激論を見かけたり、み言を押し付けるかの如くのポストを見かけたりします。

この構図になった瞬間から対立が始まりお互いが論破しようと時間と心を消費しててちょっと見たくないなと思ったのがきっかけで、改めてSNSとの付き合い方を考えてみようと思いました。

 

なんでもそうですが、SNSそれ自体には罪はありません。それを人を傷つけ、自分もダメージを受ける諸刃の剣にするか?はたまた使い方によっては非常に有益に使うのか?それを扱う人間によって善にも悪にもなりえるものです。

 

私は最低でも避けるべき使い方として誹謗中傷はもちろんNGですが

 

特にNGでやりがちなのが正論ですね

そして原理、み言の押し売りです

 

正論とは何でしょうか?辞書では、道理にかなった正しい意見や議論と書いてあります。しかしこれは日常生活でも正論を言う時は本当に注意する事が必要です。

 

本当に信頼関係がある人に対しては正論は提言として捉える事も可能だと思います。

しかしそれでも大体はどうでしょうか?なんか嫌味に聞こえたり、余計なお世話だと感じたり、そんな事分かってるよ!と反発する感情が沸々と出てくる事が多いのではないでしょうか?

リアルでも慎重になるべき正論を、SNSでやると何が起こるでしょうか?それは言うまでもありませんね。

 

では原理、み言の押し売りとは何でしょうか?

これはかなりやりがちなNGです。統一教会を創立する前から今までで語られてきたみ言は相当数があります。御言葉選集だけでも500巻を軽く超えているし、そんな膨大な御言をどの程度理解があるかと言ったら、それこそ十人十色でしょう。

文先生がダンベリーに収監された時は原理の御言葉は一切語らなかったと聞きます。

 

原理は人に向けると名刀の様に切れ味が鋭く、時には非常に大きな傷になりえるものです。

本来は自身で学び実践する事が一番大切です。

 

次に基本的にSNSは匿名性があり、使う名前もいつでも変更可能、顔も分からない人が気軽に使用してます。そんな中で、流れてくるエックスのポストを読んでのポスト主の人柄をどうやって知る事が出来るでしょうか?

  • プロフィール
  • 過去のポスト
  • リンク先
  • ポストの行間

これらの内容である程度はわかるかもしれませんが、そこまで調べる人は少ないでしょうし、あまり関心も無いかもしれません。

ポストする時はその文を読んで返信する事が多いので、勘違いも結構あります。

 

そんな中で正論を言ったところで納得できるかと聞かれたらどうでしょうか?ちゃんと会っての話ならもしかしたら納得するかもしれませんが、ちょっと難しいと私は思います。

 

コーチングに限らないと思いますが、ラポールを築くために、会話では、話す言葉以上に、それ以外の情報を私たちは無意識に得ています。表情、話す速さ、声色など、クライアントの本当に言いたい事をを知るためには非言語の部分がより大切になってきます。

なので議論したいのならば、せめてスペースで実際に会話するのが良いでしょう。

 

信仰を持つものとしては一番心掛けるもの何かと言うと神様が私たちを見てどう思っているかだと思います。そして創造目的とは何かをもう一度振り返ってみて、自分の生活がどうなのかを精査して、それでもってSNS等の使い方を考えてみたら良いと思います。

 

堂々としたカインになる

今回はあえてカインについて書いていきたいと思います。家庭連合ではアベル側カイン側と分ける事が多いですがここでは省略します。

 

今回の結論としては堂々としている事が大切です

 

創世記ではアベルとカインの供物の話で、アベルのだけを取られたと書いてあります

4:1人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 4:2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 4:3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4:4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 4:5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 4:6そこで主はカインに言われた、

「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 4:7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。 

 

これは聞いた事がある方もいると思いますが、文先生のみ言によれば、アベルは黙って心の中で喜んで、カインの前では謙虚に振るまわなければならなかったのに、自分のだけ受けられた事で、カインにものすごく自慢したと言われてます。これによってカインは腸が煮えくり返るほど激高してアベルを野原に誘ったとあります。

 

ではカインは神様に供えた穀物はどれ位の精誠がこめらていたのでしょうか?

私は決して手を抜いて、適当に育てたとは思いません。むしろこれ以上無い位に真剣に取り組み供え物を準備していたと思います。

 

例えるなら、今までずっと練習してきて、その結果試合で負ける。その時の悔しいと感じる心の度合いによく似ていると考えます。

本当に頑張ってきた人は、その分悔しさは人一倍大きいでしょうし、適当にやってきた人にとっては「まあこんなもんか」と諦めもつくでしょう。

 

なので、これは完全に私の個人的な感想なのですが、カインがアベルを野原に誘った原因は、アベルが煽ったのが原因の一つですが、それ以上に本当に頑張った事に対して馬鹿にされたのが一番じゃないのかな?と私は思います。

 

コーチとしてカインのこの気持ちに対して寄り添って承認していきたいと思いました。カインも身近に相談できる人がいたらもしかしたら変わっていたかもしれませんね。

 

私たちは少なくともコンプライアンス宣言後は本当に馬鹿正直に証伝道をはじめ、Uーpeaceの被災地ボランティアなど色々やってきました。そして、自分自身はどうでしょうか?しっかり仕事して、日常生活をして、家庭での取り組みなど、人によって歩み方は違いますが、

 

それぞれが全力で生きて頑張っている事に対して、前を向いて堂々としていれば良いのだと思います。